世を離る
1.しがらみにもつれて
古語で仏道に入る・出家することを「世を離る」と言った。
現代社会、私たちは沢山の人に囲まれていて、そのしがらみから切り離されることはない。
ある人は人を思い、ある人は人に思われ、ある時は周りに同調し…。
我々は別な個人や集団と結びつく、あるいは集団もしくは個々の人間の横で生きる、ことから逃れることはできないのだ。
2.孤独と孤高
孤独と孤高は元来別物である。
やはり人に囲まれて、周りが集団で固まってる中で横の自分が添え物でいる、ということにフト気づくと、どうにもやりきれない感情になる。
静かな感じのする寂しさ、というよりも、何だか殺風景な「淋しい」が似合うような…
そもそも別に輝いてる人がメインディッシュであっても、なにも、近代では個々の自由が尊重されて結局個人が誰かのために生を提供するわけではないから、ここで言うところの食べる客人がいないので、自分が添え物でいようが大した問題はない。
しかし、どこかで満たされない感情がある。
やはり嫉妬からくるような、でも中途半端な生き方してきたとはいえ人を見習うことで失うのが怖い自分のアイデンティティを守るための、嫉妬への否定心が沸いてくることに気づいたとき、もう自分の脳は肉体と絡みついた心身から脱せようとしている、そう、旅の始まりだ。
3.風に当たりに
議論が昂ぶった時にはやはり風に当たって冷静になろうとする。
考え込んで、どこにもぶつけようのない再帰的な欲望が生まれてしまった時、風に当たって冷静になる、時間の経過に身を任せるしかない。
再帰的な欲望・主観的な感情のなかで、やはり根源となる周りの集団即ち身を置いているコミュニティ・「身近な社会」から身を遠ざけるのが唯一の救済と言えよう。
現代日本の問題とも言える自殺も根本的な部分は同じではなかろうか。
どす黒い再帰的な感情から逃げようとして、根源の身近な社会はおろか世の中から消え去ってしまう。
(が、自殺は他者の影響がすこぶる大きいという点から見て私自身複雑な心境である。)
しかし、私は自分の中の議論を閉廷するつもりはなく、あくまで風に当たりたいだけなのだ。
世を離る―普段の自分の社会集団から切り離されて漂っていたい。
漂った先で出あう新しい風に気持ちを落ち着かせ、また慰められもしたいのだ…。
泡沫的儚さの中で、かつ消え、かつ結びて…といった物語性が、人生の気づきを呼んでくる。
これが私の旅をする理由と、旅の目的である。
4.旅情
レトロブーム、平成の時代にあった昭和の産物が散ってゆく中で、世の中にはかき集めようとする人々が見られる。
レトロそのまま、時代に逆らっているように思えてアンマリ好かない(一方ギラギラした現代の産物も嫌い)が、旅においては不思議と、空間が現代的にLEDの光で染まるほど、昔の人と人の接点が回路を作る感覚がどうもなくなるようで寂しくて仕方がない、怖い。
私の旅は鉄道と徒歩の散策で成り立っているが、どうにも古めの車両、国鉄車両にこだわる節があるのはその恐れからなのではないだろうか。
私はまだまだ学生であるが、その昭和と平成の蛍光灯時代の温かみが欠片であっても忘れられない、生まれる前の頃の憧憬が消えない。
私が隠居するころにはとっくに蛍光灯は私を追い越しているだろう。
その時、45年後の光はどんなフインキで旅を染めるだろうか。
終。おまけ
開放式B寝台も最後だ。